今日のパーソナル・コンピュータや楽譜作成ソフトの目覚ましい発展により誰でも割と簡単に見栄えのする楽譜を作成する事が出来る様になりました。かくいう私も、パソコンで楽譜を作成する機会は大変多く、また楽しんでもいます。
しかし、楽譜の世界を知れば知るほど、伝統的な職人達の卓越した技術の素晴らしさに畏敬の念を感じずにはいられません。本日は楽譜についてです。
ミュージック・エングレーヴィング (Music Engraving)
ミュージック・エングレーヴィングとは、出版する為の高品質な楽譜製作を意味し、鉄板を彫って転写する為の原版を作る「プレート・エングレーヴィング」と呼ばれる伝統的な手法をその語源としています。この手法は約20年ほど前にほとんど姿を消し(ドイツのヘンレ社(G. Henle Verlag)は2000年まで継続した)、今では「コンピュータ・エングレーヴィング」と呼ばれる、コンピュータの楽譜製作ソフトを利用したものに取って代わられました。
しかし、真にエレガントで美しい楽譜は、約10年間の修行を耐え抜き、高い技術と経験を会得した「プレート・エングレーヴィング」のベテラン職人達のみが成し得る芸術なのです。
ドキュメンタリー・ビデオ "Music Engraving on Metal Plates"
伝統的な楽譜とコンピュータで作成された楽譜の比較
私は伝統工芸の様なものが大好きなこともあり、プレート・エングレーヴィングによる楽譜のあまりの美しさと芸術性に暫くの間見とれてしまう事もしばしばあるのですが、今回はその差がどこにあるのかを考えてみることにしました。伝統的手法によって出版された楽譜とコンピュータを使って作成された楽譜を比較してみたいと思います。
左の画像はフェルナンド・ソルの「悲壮的幻想曲作品59」の最初の2小節です。
例1は1908年に出版された伝統的なプレート・エングレーヴィングによるものです。1カ所音価の間違いがあるのが残念ですが、大変美しい見栄えだと思います。
例2は私がある有名な楽譜製作ソフトを使って作成したものです。実験の為に、音符や休符を入力する以外は何も手を入れず、ソフトが勝手にレイアウトするのに任せました。多くの楽譜作成ソフトがこの様な隙間が広くて横長な、言葉は悪いですが不自然で締まりのない出力をする傾向があると思います。もう一つの問題は、5線や符幹が細すぎて、非常に読み辛いところにあります。特に初見で何か複雑な曲を演奏する時にこの差は顕著になります。
例3は正しいスペーシングを工夫する事で楽譜は読みやすくなるのでは、と言う私の仮説に基づいて、例2に、例1を見習って手を入れたものです。具体的に何をしたのかというと、1小節目1拍目の低音のラの音を多少右に移動させて縦の線を揃え、各小節の幅とそれぞれの音符間の間隔を手探りで調節、休符の高さと強弱記号(フォルテとピアノ)の位置を修正しました。多少改善したでしょうか?
例4は他のプログラムを使って私が作成したものです。低音のラの音を移動した他はあまり手を入れて修正することも無く、なかなか綺麗に出来たのでは、と思います。
以下はもう一つ他の例です。これはモレノ・トローバの「ソナチナ」の第2楽章の一部分です。
例1は1966年に出版されたプレート・エングレーヴィングの楽譜です。
例2と例3は私がそれぞれ2種類の異なるソフトを使ってコンピュータで作成した楽譜です。
上の例と同様に、音符間の間隔や小節の幅など多少の修正を加えてあります。コンピュータで作成された楽譜も工夫次第でなかなか良い線までいくのでは、と思うのですが如何でしょうか。
これらの2つの楽譜の例でどんなソフトを用いたのかですって?この記事の最後に答えがあります。
[結論]
音楽家に優しい、見やすくて美しい楽譜の秘訣とは、恐らく楽譜制作者によるその時々にあった適正な黒と白のコントラストや音符間の間隔を見極める鋭い観察眼と感性なのであろうと思います。そして、作成者の深い音楽的理解と愛情が、楽曲そのものが持つ情報を最も効率よく演奏者に伝達出来る、真の意味で美しい楽譜を生み出すのだと思います。
コンピュータによって製作された楽譜は現段階では残念ながら伝統的なプレート・エングレーヴィングの美しさには及びませんが、熟練した楽譜制作者の適切な修正によって、かなりそれに近い領域まで高める事は可能なのでは、と思います。
鉄板、金槌、コンピュータ、いずれも我々の道具に過ぎません。最終的に最も重要な部分はそれらの道具を使う人間の技術と美的感覚に依存するのでしょう。